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【感想】わたしを離さないで|クローン人間たちが抱えた大切なものとは

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こんにちは。ニャンさん@nyankodearuです。

 

はてなブログの今週のお題「読書の秋」とのことなので、先日読んだ本の感想を投稿したいと思います。

 

カズオ・イシグロさんの「わたしを離さないで」

 

 

この本はカズオ・イシグロさんの最高傑作との呼び声も高く、2017年に彼がノーベル文学賞を受賞した際も、本作品に対する称賛の声が多かったようです。また2010年にはイギリスで映画化、2016年に日本でテレビドラマ化しています。

 

ジャンルはSF(サイエンス・フィクション)に分類されますが、一見すると重いテーマで、迂闊に語ることを許さない雰囲気があります。しかし、本質的には私たちの人生とも深くかかわる内容で、意外と身近な話題だと考えています。

 

この記事では簡単にあらすじを説明した後、考察を兼ねた感想を述べます。物語の核心にも触れるため、これから読まれる予定の方は、読後にご覧いただきますようお願いします。

 

わたしを離さないで~あらすじ(ネタバレあり)~

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主人公のキャシーは「介護人」として働いており、「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。

 

キャシーはへールシャムという施設で育ち、幼馴染のトミーやルース達と共に過ごしていた。へールシャムでは特殊な教育が行われ、キャシーたちが子どもを産めないこと、将来は「提供者」になることなどを教えられる。

 

実はこのへールシャムという施設に収容された子供たちはクローン人間であり、臓器提供をするために育成されているという事実が発覚(他にも同様の施設は多数あり)。

 

キャシーたちのクローン元は「ポシブル」と呼ばれ、ポシブル達はおそらく社会的に弱い立場である人達だと考えられており、その影響もありキャシーたちは自分たちの劣等感を心の内に秘めて成長していく。

 

このような状況でキャシーたちは青春時代を送り、成人後は「介護人(提供者を介護する人)」として勤務し、一定期間の務めを終えて「提供者(臓器を提供する人)」となるのであった。

 

わたしを離さないで~感想(考察を含む)~

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この小説は「クローン人間が臓器を提供する」という設定だけが一人歩きして話題になっていますが、私が思うにメインテーマはそこではなく、これは悲観的な未来を定められた青年たちが、懸命にもがき苦しみそれでも生きていく、そんな物語だと解釈しています。

 

ここからは先は、少し要点を整理して考察していきましょう。

 

「悲観的な未来が定められている」とは何を意味するのか

この物語において、最も重要なポイントはこれです。クローン人間として誕生したキャシーたちは、生まれた時から「成人後に臓器を提供して死ぬ」ということが決められており、よりよい提供者になるための教育をされます。

 

この状況で何が問題となるか。答えは単純で、生きる希望というものが見出しにくく、虚無的な心理状態に陥りやすいのです。

 

少し専門的な話になりますが、人間が何か目標を定め努力をするためには動機付けというものが必要で、この動機というものは「報酬を得ること」になります。簡単な例を挙げると、仕事をすると賃金がもらえますよね。この賃金が「報酬」であり、その賃金をもらいたいということが「動機」に当てはまります。

 

この「報酬」とは必ずしも物とは限らず、たとえば幸福感なども一種の報酬なのです。幸福感は生存競争や繁殖競争に有利に働くように機能し、具体例を挙げると「美味しいものを食べて幸せ=栄養価が高い食物の確保」、「職場で地位が上がって幸せ=経済的な安定(食糧・安全の確保)」、「魅力的な異性と交際できて幸せ=優秀な子孫を残す可能性が高まる」、こういったものが幸福感の正体なのです。

 

この報酬系による動機付けは短期的なものと長期的なものに分類され、例えばオリンピックを目指す選手などは4年後の大会で成功することを夢見て努力するわけで、これは長期的なものになりますね。

 

さて、話を小説に戻しましょう。キャシーたちは提供者になることが定められており、これは努力によって変えることができません。つまり彼らは、努力によって職業を選ぶこと、命を長らえること、愛する異性との子どもを誕生させることも叶わぬのです。

 

正常な社会生活を営むための基盤となる報酬系が正常に機能しない。努力の先に報酬などない。これはまさに虚無と呼ぶべき状況で、どうして希望を持てるでしょうか。

 

作品全体から漂う閉塞的な世界観。彼らは希望の持てぬ未来に向かって歩き、苦しみ、それでもなお必死に生きました。作品内ではキャシーたちのささやかな青春時代も描かれ、そこには普通の子供と何ら変わらぬ微笑ましい光景があり、これらは小さな喜びや秘密、嫉妬など、誰もが内に持っている感情です。

 

しかしそんな背景には、前述したような悲しい現実があるのです。

 

ルースがポシブル(クローン元)に固執した理由

キャシーたちのポシブルは社会的な弱者である。この設定の真偽は不明ですが、物語の中盤でルースの口から語られたことです。

 

わたしたちの『親』はね、くずなのよ。ヤク中にアル中に売春婦に浮浪者。犯罪者だっているかもしれない。ま、精神異常者は除かれるのが救いかしら。それがわたしたちの『親』よ。
引用:カズオ・イシグロ(2008年).わたしを離さないで 早川書房

 

提供者になるべく育てられたキャシーたちは、自分のポシブル(クローン元)の存在を強く意識しています。

 

理由はおそらく簡単で、自分たちは提供者になるという運命だが、もし普通の家庭に生まれ、普通に生活ができたのならば、一体どのような人間になっていたのだろう…。そう、彼らは自分が本来持っていたはずの可能性を知りたかったのでしょう。

 

私たちでも時々思うことがありませんか。
「もしあの時こうしていたら…」
「もしこのような環境に生まれていたら…」
パラレルワールドのような想像を、ふとしてしまうものです。

 

提供者になるべく育てられ、未来の可能性を奪われている彼らにとって、「自分たちも普通の家庭に生まれていれば、立派な職業に就き、真っ当な社会生活を送れたはず」という想像は切実なものだったのでしょう。

 

へールシャムの目的は何だったのか

物語の終盤、キャシーとトミーは提供までの期間を延長することを懇願するため、へールシャムの関係者だったエミリ先生とマダムのもとを訪れます。

 

一連の流れの中で、トミーはエミリ先生にこのような問いかけをしました。

 

じゃ、先生、おれたちがやってきたことってのは、授業から何から全部、いま先生が話してくれたことのためだけにあったんですか。それ以外の理由は何もなかったんですか
引用:カズオ・イシグロ(2008年).わたしを離さないで 早川書房

 

自分たちは提供するためだけの存在なのかという問いかけです。これに対しエミリ先生はそうではないと前置きしたうえで、自身やへールシャムという施設の目的について、このように述べています。

 

私たちは生徒に何かを ―誰からも奪い去られることのない何かを― 与えようとして、それができたと思っています。
引用:カズオ・イシグロ(2008年).わたしを離さないで 早川書房

 

作中で何度か仄めかされましたが、へールシャムは提供者育成施設の中ではやや特殊で、生徒たちが人間らしい心を持てるような教育がされていました。裏を返せば、その他の施設は「人間らしい扱い」がされない劣悪な環境だったとも推測できます。

 

なぜ他の施設では「提供者を人として扱わない」という方針で運営されていたのでしょうか。

 

この理由はおそらく、提供者に対して感情移入をさせないためです。これは社会心理学や認知心理学においてもしばしば指摘される問題で、他者に対してどれだけ共感・感情移入するかは相手との親密度が大きく影響し、対象を「非人間化して見る」ことでその機能は正常に作用しないと言われています。

 

例えば戦争時、兵士は相手兵を躊躇なく殺害しますよね。普段私たちの周りにいる「普通の人たち」が、戦時にはこのような殺戮者となり得るのです。このメカニズムも相手兵士を「非人間化」して見ているということが推測されており、自分と同様ではない、共感の対象外として認知しているのだと考えられています。

 

つまり、この物語においても提供者を非人間化することで、臓器を提供するただの物にすぎないと思い込み、彼らが苦しんだとしても「かわいそう」という罪悪感が発生しないようにしているのでしょう。

 

そしてエミリ先生が言うように、これに対抗するというへールシャムの目的はある意味達成することができました。キャシーたちは限られた可能性の中で人間らしい精神性を見せたからです。仲間同士を思い合い、人を愛し、苦悩し、悲しみ、些細な喜びを感じ、懸命に生きました。

 

その姿は普通の人と何ら変わらず、提供者も人であるという証明をすること、つまりへールシャムは目的を成し遂げることができたのです。

 

「わたしを離さないで」というタイトルの意味

本のタイトルである「わたしを離さないで」。この言葉は一体何を意味するのでしょうか。

 

「わたしを離さないで」は物語中に登場する架空の歌で、このような歌詞です。

 

ネバーレットミーゴー……オー、ベイビー、ベイビー……私を離さないで……
引用:カズオ・イシグロ(2008年).わたしを離さないで 早川書房

 

これはキャシーが好んで聞いていた歌で、少女時代にこの歌を口ずさみながら踊っていた姿を見たマダムが涙を流す…、というシーンがありました。

 

この時に涙を流した理由について、マダムは後にこう述べています。

 

あの日、あなたが踊っているのを見たとき、わたしには別のものが見えたのですよ。新しい世界が足早にやってくる。科学が発達して、効率もいい。古い病気に新しい治療法が見つかる。すばらしい。でも、無慈悲で、残酷な世界でもあるそこにその少女がいた。目を固く閉じて、胸に古い世界をしっかり抱きかかえている。心の中では消えつつある世界だとわかっているのに、それを抱き締めて、離さないで、離さないでと懇願している。わたしはそれを見たのです。
引用:カズオ・イシグロ(2008年).わたしを離さないで 早川書房

 

やや抽象的な表現で、解釈は個々の読者に委ねられますが、私はこう思っています。

 

キャシーたち提供者は、世界の決まりという大きな力に支配され、臓器を提供するという運命に従い生きています。それに抗うことは決してできず、残酷なものです。

 

しかし、キャシーたちにも人として過ごした個々の思い出があり、それはとても大切なもの。自分たちには変えられない運命だとしても、その大切な思い出は自分たちのもので、それだけは奪われたくはない。例え世界の中では小さな存在だとしても、自分の大切なものを必死に抱きかかえ、それを「離さないで…」と懇願し、懸命に生きている

 

この物語におけるキャシーや幼馴染たちの生き方を見て、私はこのような解釈をしました。

 

わたしを離さないで~まとめ~

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以上、「わたしを離さないで」を読んだ感想・考察を述べました。

 

前述したように、クローン人間が臓器を提供するという設定ばかりが注目されていますが、私が思うにこの本の真意はそこではなく、「限られた可能性の中で苦しみながらも懸命に生き抜く青年たちの姿」を描いたものだと考えています。

 

これは実は、程度は違えど私たちの社会にもそのまま当てはめることができるものです。大抵の人が自分の限界というものにうすうす気が付いており、今後の人生もなんとなくは予想しているはずです。歴史に名を残すような人物はごくわずかで、基本的にはその他大勢のような形で生涯を終える。しかしそれでも皆何かを夢見て、またそれぞれに大切な何かを抱えて生きており、それを離さないように懸命にもがいている。

 

そしてこれこそが生きることだと私は思っています。

 

「わたしを離さないで」は確かにもの悲しいストーリーで、キャシーの幼馴染たちは皆「提供者」として命を落とし、キャシー自身もおそらくこの後は臓器を提供し、死が待ち受けているのでしょう。

 

しかし彼らの人生は臓器提供をするためだけにあったのではなく、彼らにしかない思い出や喜びがあり、それを大切にし、必死に生きた。その人生そのものに価値があったのです。

 

「わたしを離さないで」という小説は、悲観的な運命が待ち受ける青年たちが懸命に生きる姿を描いた、儚くも美しい、そんな一冊でした。