にゃんさんブログ

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【感想】夜と霧|フランクルが地獄で見出した人間の尊厳と希望

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こんにちは。ニャンさん@nyankodearuです。

 

今回紹介する本は『夜と霧』
現在でも世界中で愛されている名著であり、読んだことがある方も多いかと思います。

 

優秀な精神科医であるヴィクトール・フランクルによって書かれたこの本は、彼自身が体験した強制収容所での日々が赤裸々に綴られており、当時の状況を物語る資料としては『アンネの日記』とならび価値があると評価されています。

 

フランクルは地獄のような環境の中で、極限の精神状態に追い込まれた人々の様子を冷静に観察しました。自身の精神科医としての知識と経験をもとに、可能な限り客観的な目で。

 

家畜のごとく無慈悲な労働を強制され、死んだあとはゴミのように捨てられていく被収容者たち。この地獄のような状況下で、フランクルはある疑問を感じていました。

 

一体、人の尊厳とはどこにあるのか?

生きる意味とは?

 

フランクルが地獄の中で見出した答えが、この本の中に書かれています。

 

夜と霧 ~感想~

読むたびに新たな気づきを得ることができる、素晴らしい作品です。
ちなみに私は中学生の時に、読書感想文の題材にした思い出があります。

 

この本で描かれているのは、「極限状態に追い込まれた人」の心理状態。
平和な時代で暮らしている私たちには縁がないようにも思えますが、それは大きな間違いです。

 

私を含め、人間という存在は、心に余裕がなければ途端に態度が豹変しますよね。どんな状況でも完璧な態度でふるまうことができる人など、これまで一人も見たことがありません。

 

被収容者たちは、まさに極限状態でした。
未来に待ち受けるのは過労死、衰弱死、焼却死…。何もかもを奪われた状態で、家畜のような労働を強要され最期は捨てられる、そんな運命に直面した人々です。

 

この本に描かれている状況と、フランクルのメッセージから感じたことを整理して書いていきます。

 

すべてを奪われた状況とは

私たちは、目に見えるか否かに関わらず、様々なものを抱いて生きています。

 

名前、家族、住居、衣服、お金、仕事、業績など。


こういった複数の要素が混ざり合って「私」という存在が認識され、そしてごく当たり前のように日々を送っているわけです。

 

もし仮に、ある日突然これらをすべて奪われたら、人はどうなってしまうのでしょうか。

 

シャワーを待っているあいだにも、わたしたちは自分が身ぐるみ剥がれたことを思い知った。今や(毛髪もない)この裸の身体以外、まさになにひとつ持っていない。文字どおり裸の存在以外のなにものも所有していないのだ。これまでの人生との目に見える絆など、まだ残っているだろうか。

引用:ヴィクトール・E・フランクル(2002年).夜と霧-新版- みすず書房

 

被収容者たちは家族と分断され、身につけている物品はすべて奪われ、名前の代わりに番号をつけられ、体毛さえも削ぎ落とされた、文字通り「目に見えるものすべて」を奪われた状態です。

 

常人には正気を保つことすら困難で、自分が何者かを証明する手段すら持たぬ異常な状況。

 

しかし、フランクルはあることに気付きました。
たった二つ、誰にも奪えないものが自分の中に残っていたのです。

 

誰にも奪えないものとは

目に見えるものを奪うことはたやすいことです。
では、目に見えないものは?

 

フランクルは、人間には誰にも奪えないもが二つだけあることに気が付きました。
愛の存在とふるまいの自由です。

 

愛の存在

愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現存」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。

引用:ヴィクトール・E・フランクル(2002年).夜と霧-新版- みすず書房

 

フランクルは、収容される際に家族と分断されました。この本の中では語られませんでしたが、彼の父・母・妻は収容所内で死亡しています。

 

しかし、フランクルの奪われたものはあくまで家族の肉体であって、家族との愛は自分の中に残っていると悟りました。

 

人間の愛する対象は、生身の肉体そのものではなく、そこからさらに創発された抽象的な存在であるという思想。

 

ここでいう「愛」とは、いわゆる形而上的な存在だと言い換えてもよいでしょう。
フランクルにとって、たとえ妻の命が奪われようと、自分の中にいる愛する妻の存在は奪われなかった。

 

そして、自分の中にある「妻の存在」は誰にも奪うことはできず、そしてそれこそが愛の本質だと確信したのです。

 

ふるまいの自由

このことは、フランクルが『夜と霧』を通じて最も伝えたかったメッセージでしょう。

 

人間の自由とは何か。
それは「自分がどのようにふるまうか」を決定する自由です。
これだけは、決して誰にも奪うことはできないと。

 

強制収容所の中で、現場監督たちはサディズムに暴力をふるうことに酔いしれ、被収容者たちは飢えた獣のごとく生きることのみに執着する、という惨状でした。

 

しかし、中には例外もいたのです。現場監督にも人間らしい優しさを保った人はいたし、被収容者にも仲間を思いやる余裕を持った人がいたと。

 

フランクルは、あるエピソードをとりあげています。

 

たとえば、こんなことがあった。現場監督(つまり被収容者ではない)がある日、小さなパンをそっとくれたのだ。わたしはそれが、監督が自分の朝食から取りおいたものだということを知っていた。あのとき、わたしに涙をぼろぼろこぼさせたのは、パンという物ではなかった。それは、あのときこの男がわたしにしめした人間らしさだった。そして、パンを差し出しながらわたしにかけた人間らしい言葉、そして人間らしいまなざしだった……。

引用:ヴィクトール・E・フランクル(2002年).夜と霧-新版- みすず書房

 

このように、現場監督の中にもごくわずかながら、人間らしい善意をもつものはいました。そしてこれこそが、どのような状況でも「ふるまいの自由」は存在するという証拠でもあります。

 

極限状態にありながらも論理的な思考を維持し、相手が同じ人間であると捉え、今の状況が異常であると把握し、人間らしいふるまいを忘れなかったものは確かに存在したのです。

 

このような異常な状況はまるで他人事のように感じますが、決してそうではありません。

 

我々の日常でよく目にするパワハラやいじめなど、本質的には全く同じ問題で、それは程度の違いなのです。

 

フランクルは、さらに厳しい言葉でこうまとめています。

 

この世にはふたつの人間の種類がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。

引用:ヴィクトール・E・フランクル(2002年).夜と霧-新版- みすず書房

 

これも的確な言葉です。
どの集団でも、まともである人間とそうではない人間、この両者は必ず混ざり合っています。

 

私たちの身の周りでは、思考を停止させたような単純な会話が日常的に繰り広げられますよね。

  • あそこの学校はみんないい人
  • この病院の医者は全員ヤブ
  • ○○国のやつは頭がおかしい

 

このような浅はかなステレオタイプのことです。

 

おそらく皆さんも気づいているはず。
集団内の構成とはこのように単純なものではなく、どの集団にもまともな人とそうではない人がいること。もちろん、割合は異なるかもしれませんが。

 

自分の立場を客観視し、どのような態度をとることを要求されているかを把握し、そしてその要求は妥当なのかを判断し、これらを吟味して自分のふるまいを決定する。
これこそがまともな人間の特徴だと思います。

 

そして、こういったまともな人間であろうとする意志、それを自由と呼んでもよいでしょう。

 

一方、まともではない人間、これは簡単な言葉で表せば「環境に流されてしまう人」とも言えます。

 

フランクルは、このように「環境に流されやすい人」について、あるパターンを見極めました。

 

被収容者を心理学の立場から観察してまず明らかになるのは、あらかじめ精神的にまた人間的に脆弱な者が、その性格を展開していくなかで収容所世界の影響に染まっていく、という事実だった。脆弱な人間とは、内的なよりどころをもたない人間だ。

引用:ヴィクトール・E・フランクル(2002年).夜と霧-新版- みすず書房

 

「内的なよりどころをもたない人間」という表現を使っていますが、これは「生きる意味をもたない人間」という言葉に変換してもよいかと思います。

 

生きる意味とは

収容者たちは、家畜以下の扱いを受けていました。低栄養状態で過度の労働を強いられ、衰弱して命を落としていく状況。

 

このような状況下で、フランクルは考え抜きました。
人間の尊厳とはどこにあるのか、そして生きる意味とは。

 

前述したように、強制収容所では身につけていた物品はすべて奪われ、常に死と隣り合わせの生活でした。終わりも見えず、仲間たちも次々と命を落としていく地獄。このような状況下で、生きる意味など見出せるでしょうか。

 

そこにあるのは苦しみだけ。
私たち現代人が望むような、満たされた生活や高次な自己実現などには程遠い世界です。

 

しかし、フランクルはこのような地獄の中にも生きる意味は存在すると断言し、厳しい意見を述べています。

 

被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

引用:ヴィクトール・E・フランクル(2002年).夜と霧-新版- みすず書房

 

生きる意味とは、現代人が頻回に口にする、夢や自己実現のための行動からのみ得られるものではなく、苦悩の中にも存在するというのです。


この言葉は強く、とても意味があるもの。

 

また、フランクルは次のようにも語っています。

 

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

引用:ヴィクトール・E・フランクル(2002年).夜と霧-新版- みすず書房

 

これは本質的な言葉です。
決定論が蔓延する現代において、極めて重要な意味を持ちます。

 

生きる意味を教えてくれ!
……と他者に問う人は少なくありませんが、それはそもそもの発想が間違っており、私たちは生きる意味を問われている立場なのです。

 

自分の環境を受け入れ、その中で自分に何ができるのか…ということ。
そしてそこに生きる意味は存在しているのだと。

 

では、生きる意味とは具体的にどのようなものなのでしょうか。
フランクルは、とてもシンプルなヒントを提示しています。

 

このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。

引用:ヴィクトール・E・フランクル(2002年).夜と霧-新版- みすず書房

 

人が生きる意味、それは誰もが持っている、自分の身近なものに対する「責任」を自覚することです。

 

自分に任された仕事がある

自分の帰りを待っている子供がいる

 

このような日常では気にも留めない些細なこと、しかしそれ自体が生きる意味そのものであり、他者が代わりにできるものではありません。

 

そして、それを自覚することこそが「内的なよりどころ」という言葉で表現される、強い人間がもつ特徴なのだと。

 

このようにフランクルの言葉は重く、目をそむけたくなるような厳しさをもちます。

 

しかし、地獄の中から無事生還し、家族を皆殺害されてもなお前を向き、精神医学に多大な貢献をしたフランクル。

 

彼の言葉には、誰よりも説得力があるのです。

 

まとめ

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1945年、奇跡的に生き延びたフランクルは無事解放され、そして翌年には『夜と霧』の原著である『trotzdem Ja zum Leben sagen:Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager』を発表します。

 

分断された家族は命を落とし、自らが築いたものの多くを失ったフランクル。
大きな悲しみを乗り越え、それでもなお人が生きることには意味があると断言する彼の言葉は、私たちに勇気を与えてくれます。

 

なお、この本には旧版と新版があり、少し内容が異なります。
旧版には当時の貴重な写真が掲載されており、資料としても価値が高い作品。
一方で新版は比較的易しい文章で構成され、読書になじみがない方でも取り組みやすい印象です。

 

私は両方持っていますが、まずはとりあえず読んでみたい……という方には新版で十分でしょう。

 

われわれ現代人が見失いつつある大切なこと。
そのヒントがこの本の中に詰まっていると思います。

 

~新版~

 

~旧版~